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アルファからオメガまで

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12.25.19:28

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  • 12/25/19:28

09.21.17:00

論理対論理 論理対感情

-はじめに。つい他人の批判をしたくなるとき、つい愚痴をいいたくなるとき、つい自分を他人を排してでも守りたくなるときにこのページを読み返したいと思う。-

-世の中に答えがある問いなんて、実はそう多くない。
人生についてだって、仕事についてだって、恋人同士の痴話げんかであってもだ。多くの問題において、意見の対立が起きたときにはどちらの言い分もそれなりの理がある場面が多くある。
例をいくつか出せば、「人間は外見でなく中身だ。」という考えと「人間は見た目が大事だ。」という考えの本のどちらを読んでも頷ける点が多くある。学校に意味はないと言う不登校の子供と学校に行って欲しい行く必要性を説く親、金融危機を生んだ金融機関の連中の仕事は汚いという考えと金融機関が経済の血である金を動かすことによって多くの人が資金を手にでき経済が回るのだから金融機関は大事な存在であるという考え。これらの多くはどちらの理が正しいかなんて神さまでなければ答えはだせないのではないだろうか。
-否定と否定の応酬では、答えはでない。相手は考えを変えない。
近年のテレビなどの政治討論では他人の話をぶったぎって自分の考えをマシンガンのごとくまくし立てる方が多い。討論とは、英訳すればディベートだろう。ディベートでは本来賛成の立場のものが否定の立場にたって議論をかわすトレーニングをすることが多い。他人の立場に立って考えることを近年の日本人は忘れてしまっているように思える。
どんな人でも経験したことがあると思えることがひとつある。それは相手の言葉がどんなに正論であり論理的であっても、否定されればされるほど、厳しく否定されればされる程に、その人の意見を受け入れる気にはならないということだ。そして自分の意見に固執してしまう。小中高の学生時代を思いだせば、教師に頭ごなしに叱れれば叱られるほど反感を抱いていた自分がいたはずである。

最後に偉人の名言を”ベンジャミン・フランクリンはよくこういっていた「議論をしたり反芻したりしているうちには、相手に勝つようなこともあるだろう。しかし、それはむなしい勝利だー相手の好意は絶対に勝ち得られないのだから」。
セオドア・ルーズヴェルトは「自分の考えることが100のうち、75まで正しければ自分としては、それが望みうる最高だ」と人に打ち明けていた。”

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