12.26.19:38 [PR] |
10.06.16:49 こどもの喧嘩 |
こどもの喧嘩には、どう対処すればいいのだろうか?
母の職場の友人の小学6年生の子供が友達と喧嘩をしたらしい。
その子をA君とする。
その子は学校の仲の良い友達を家に招待したのだが、その友達が家に向かう途中に他のクラスメイトと出会いそのクラスメイトが一緒に家についてきたのだ。
人数は多くなってしまったものの、A君はみんなと家で遊ぶことにした。
その後問題が起きた、A君は仲の良い友達とゲームをしていたところ、他のクラスメイトはA君の部屋の引き出しなどを開けてひそかにA君が大切にしていたおばあちゃんの形見を本棚に隠してしまったらしい。
友達が帰った後、形見がなくなっていることに気づいたA君の姿は想像どおりだったそうだ。
さて、ここでもし自分がA君の親だとしたらどう対処したらいいのだろうか。
そんな陰湿なクラスメイトを家に呼ぶな!とA君に言うのか?
学校の先生に相談するのか?
クラスメイトの親に話をして解決するのか?
親が出て行くことではないとして、子供同士の解決に任せるか?
私だったらどうするか。おそらくそのクラスメイトに再度家に遊びにきてもらうという選択をすると思う。そこで自分の息子から先に「あのことはもう気にしてないよ。けど、悲しいからもう二度としないで欲しいな」と言わせるだろう。目的は、息子に許すことの喜びを教えること、そしてクラスメイトの子に批判を与えず顔をつぶさずに、問題を解決する方法があり、二人の小学生にそのときの感情を教えることである。
その子はまだ小学生。そして自分の子供も小学生。教育ということを考えた場合、第一にその子の顔をつぶすようなことだけはしてはいけないのではないか。つまりその子の親に連絡して任せるという行動だ。第二に犯人探し>責任を問う、罰を与えるという行為をしてはいけない。こども同士に任せるとそのクラスメイトに対して最悪無視をするという行為を誘発する可能性がある。人間は悪いと思っていることに対して、批判等をされると反発>最悪自己正当化をする。これは大変危険なことである。
こういった対処方法はこどもだけじゃなくて大人社会でも応用が可能だと思う。子育ては大変、社員教育は大変。だけど、その対象はあくまで人間なのだから敬意をもって接する必要がありますなーと考えさせれた事件でした。
09.29.10:47 大戸屋でサラダ |
最近は、家で作る新メニューのネタ探しに外食をするというカイジなのだが、先日、大戸屋でランチで有機野菜のサラダという新メニューを食べさせていただいた。
一口食べて広がるルッコラの香り、フレッシュレタスの食感といいすばらしい味だった。さすが大戸屋といったところであり、あの値段(350円)でこの味は大満足。
これに加えセットメニューで、コーヒーやトーストがついてくるということなしなのだが、そういったメニューはないようだ。それで500~600円程度で食べれてサラダは10種類程度から選べますよとなってくれたらうれしい。
そういえば、近年のヘルシー志向、健康志向、メタボ対策、ダイエット志向etcのなかサラダをメインにしたランチメニューを提供する大型チェーン店が増えてきてもよいのではないか?と思えるが、野菜を中心とした低価格料理を提供することは仕入れコストとして難しいのかもしれない。野菜は天候などによって値段が乱高下するという怖さもある。
だが、日本の野菜は形や小さな傷の問題で小売店に並ぶ前に捨てられてしまう野菜が30%前後あるといわれている。形が悪かろうが切って料理として出してしまえば味の違いはないのだから、そういった商品を安く仕入れ、人々の「ためになる」「儲かる」サラダランチのお店を展開していくビジネスっておもしろいかもなーと妄想してしまったカイジである。
09.21.17:00 論理対論理 論理対感情 |
-はじめに。つい他人の批判をしたくなるとき、つい愚痴をいいたくなるとき、つい自分を他人を排してでも守りたくなるときにこのページを読み返したいと思う。-
-世の中に答えがある問いなんて、実はそう多くない。
人生についてだって、仕事についてだって、恋人同士の痴話げんかであってもだ。多くの問題において、意見の対立が起きたときにはどちらの言い分もそれなりの理がある場面が多くある。
例をいくつか出せば、「人間は外見でなく中身だ。」という考えと「人間は見た目が大事だ。」という考えの本のどちらを読んでも頷ける点が多くある。学校に意味はないと言う不登校の子供と学校に行って欲しい行く必要性を説く親、金融危機を生んだ金融機関の連中の仕事は汚いという考えと金融機関が経済の血である金を動かすことによって多くの人が資金を手にでき経済が回るのだから金融機関は大事な存在であるという考え。これらの多くはどちらの理が正しいかなんて神さまでなければ答えはだせないのではないだろうか。
-否定と否定の応酬では、答えはでない。相手は考えを変えない。
近年のテレビなどの政治討論では他人の話をぶったぎって自分の考えをマシンガンのごとくまくし立てる方が多い。討論とは、英訳すればディベートだろう。ディベートでは本来賛成の立場のものが否定の立場にたって議論をかわすトレーニングをすることが多い。他人の立場に立って考えることを近年の日本人は忘れてしまっているように思える。
どんな人でも経験したことがあると思えることがひとつある。それは相手の言葉がどんなに正論であり論理的であっても、否定されればされるほど、厳しく否定されればされる程に、その人の意見を受け入れる気にはならないということだ。そして自分の意見に固執してしまう。小中高の学生時代を思いだせば、教師に頭ごなしに叱れれば叱られるほど反感を抱いていた自分がいたはずである。
最後に偉人の名言を”ベンジャミン・フランクリンはよくこういっていた「議論をしたり反芻したりしているうちには、相手に勝つようなこともあるだろう。しかし、それはむなしい勝利だー相手の好意は絶対に勝ち得られないのだから」。
セオドア・ルーズヴェルトは「自分の考えることが100のうち、75まで正しければ自分としては、それが望みうる最高だ」と人に打ち明けていた。”
09.16.00:16 アルファからオメガまで |
「盗人にも5分の理を認める。」これはD・カーネギーの著書の一節である。
このブログは、公認会計士試験合格までの記録であるが、何よりも自分のために自分の思考方法をある方向へ向けるためのアウトプット手段である。
その方向とは自分を持ちつつ、なお他人をあらゆる場面で拒絶しないということだ。
これがとにかく難しい。議論といい自分の考えを主張し、相手にうちまかすこと、これはとても気持ちのいいことである。競争で勝つことは気持ちがいい。ただこれでは世界には究極的に自分以外いらなくなる。イエスマンで周りを固めることになる。
それで人生を楽しめるのか?その疑問は常に私の中にあった。そしてその疑問の答えに私は近づけていると確信しつつある。
その答えを習慣づけることがこのブログの目的である。
P.S.私的なものであるが、他者が読んでも有益なものになるブログになる予感はある。たどり着いた方に楽しんでいただければ幸いである。