12.26.07:40 [PR] |
11.10.18:25 化物語 |
11.03.04:28 大学 |
教授側は学生のやる気がないと語る。現に君たちがこの程度なのは分かっていると教壇で語ってしまう教授がいる。学生のレベルが落ちていると当人の前で語ってしまう教授がいる。
学生側は、「役に立つ可能性が極めて低い授業しかないのにやる気がでるわけがない。授業の質が悪いんだよ。教授はあくまで研究が目的で学生を教えるのが、あまりに下手だ。」と語る
このように慶応の政治学科では、お互いに見切りをつけているような雰囲気を感じている。他の学部、他の大学についてもおそらく似た雰囲気があるのではないだろうか。
そうなると学生個人が自分で勉強をしていくことになるのだが、実際はバイト三昧で3年になってから就職活動というパターンになるのだろう。
よって、このままいくと将来の日本の大学はどうなってしまうんだろうかという思いがあったりする。お互いにあきらめてしまっている環境では優秀な人材など大学からは生まれてこなくなってしまうのではないだろうか。
実際に中からみてフォローのしようがないから困る(笑
ちょっとした予感なのだが、あと10年くらいたてば4年生の専門学校がメジャーとなっていき卒業するときには、実際に使える人材を大量に排出するという状況になるのではないだろうか。
また、そうなれば学生時代に実力がある学生が増えてベンチャー意欲というものも盛り上がり、中国や韓国にも負けない逸材がでてくることも期待できる。
さて、将来の大学はどうなっていくんだろうか。社会で教育について考える必要がありそうだ。
10.13.13:40 国益とは |
前原発言「寝耳に水」=羽田ハブ空港化を批判-成田市長
10月13日11時48分配信 時事通信
自分たちの市の空港の利権が奪われるため、「成田市長」が反対を言うのはもっとも。
もっともなのだが、、、国益に対して地域住民の権利はどこまで保護されるべきなのか。
これは、八ツ場ダムの問題でも感じられる。
八ッ場の場合は、ダムの効果という観点からみると作る意味があるという専門家もあるようで同列視はできないのだろうが、羽田のハブ化という問題は成田の不便さを考えれば成田市以外の住民は賛成であろう。
個人的な意見としては、地域住民で反対の方にはマネーを支払い解決するべきだと思っている。そして受け取りの拒否は許されない。
三原淳雄さんのブログでちょうどこの問題を扱っておられるので、参考にしてもらいたいのだが、
http://guccipost.jp/cgi-bin/WebObjects/12336a3d498.woa/wa/read/sq_12438377643_0/
イギリスでは、個人よりも公共が優先され公共の利益になることに対してl個人がごねることは許されていない=反対し続けると監獄行きらしい。
というか「ごね得」という概念自体がないらしい。
個人の利益を尊重しつづけることは、ある個人とある個人の利益が同様でないのと同じで様々な意見に翻弄されることに繋がってしまう。集団対集団の場合もそうだ。だから派閥政治が骨抜き政治となってきたのをわれわれはみてきたはずだ。
ならば国益の名の下ひとつの利益を目指し進むことは公共事業においては大事なことなのだろう。よって地元の方にはお金で納得してもらうのがよいのだろう。
10.06.16:49 こどもの喧嘩 |
こどもの喧嘩には、どう対処すればいいのだろうか?
母の職場の友人の小学6年生の子供が友達と喧嘩をしたらしい。
その子をA君とする。
その子は学校の仲の良い友達を家に招待したのだが、その友達が家に向かう途中に他のクラスメイトと出会いそのクラスメイトが一緒に家についてきたのだ。
人数は多くなってしまったものの、A君はみんなと家で遊ぶことにした。
その後問題が起きた、A君は仲の良い友達とゲームをしていたところ、他のクラスメイトはA君の部屋の引き出しなどを開けてひそかにA君が大切にしていたおばあちゃんの形見を本棚に隠してしまったらしい。
友達が帰った後、形見がなくなっていることに気づいたA君の姿は想像どおりだったそうだ。
さて、ここでもし自分がA君の親だとしたらどう対処したらいいのだろうか。
そんな陰湿なクラスメイトを家に呼ぶな!とA君に言うのか?
学校の先生に相談するのか?
クラスメイトの親に話をして解決するのか?
親が出て行くことではないとして、子供同士の解決に任せるか?
私だったらどうするか。おそらくそのクラスメイトに再度家に遊びにきてもらうという選択をすると思う。そこで自分の息子から先に「あのことはもう気にしてないよ。けど、悲しいからもう二度としないで欲しいな」と言わせるだろう。目的は、息子に許すことの喜びを教えること、そしてクラスメイトの子に批判を与えず顔をつぶさずに、問題を解決する方法があり、二人の小学生にそのときの感情を教えることである。
その子はまだ小学生。そして自分の子供も小学生。教育ということを考えた場合、第一にその子の顔をつぶすようなことだけはしてはいけないのではないか。つまりその子の親に連絡して任せるという行動だ。第二に犯人探し>責任を問う、罰を与えるという行為をしてはいけない。こども同士に任せるとそのクラスメイトに対して最悪無視をするという行為を誘発する可能性がある。人間は悪いと思っていることに対して、批判等をされると反発>最悪自己正当化をする。これは大変危険なことである。
こういった対処方法はこどもだけじゃなくて大人社会でも応用が可能だと思う。子育ては大変、社員教育は大変。だけど、その対象はあくまで人間なのだから敬意をもって接する必要がありますなーと考えさせれた事件でした。
09.21.17:00 論理対論理 論理対感情 |
-はじめに。つい他人の批判をしたくなるとき、つい愚痴をいいたくなるとき、つい自分を他人を排してでも守りたくなるときにこのページを読み返したいと思う。-
-世の中に答えがある問いなんて、実はそう多くない。
人生についてだって、仕事についてだって、恋人同士の痴話げんかであってもだ。多くの問題において、意見の対立が起きたときにはどちらの言い分もそれなりの理がある場面が多くある。
例をいくつか出せば、「人間は外見でなく中身だ。」という考えと「人間は見た目が大事だ。」という考えの本のどちらを読んでも頷ける点が多くある。学校に意味はないと言う不登校の子供と学校に行って欲しい行く必要性を説く親、金融危機を生んだ金融機関の連中の仕事は汚いという考えと金融機関が経済の血である金を動かすことによって多くの人が資金を手にでき経済が回るのだから金融機関は大事な存在であるという考え。これらの多くはどちらの理が正しいかなんて神さまでなければ答えはだせないのではないだろうか。
-否定と否定の応酬では、答えはでない。相手は考えを変えない。
近年のテレビなどの政治討論では他人の話をぶったぎって自分の考えをマシンガンのごとくまくし立てる方が多い。討論とは、英訳すればディベートだろう。ディベートでは本来賛成の立場のものが否定の立場にたって議論をかわすトレーニングをすることが多い。他人の立場に立って考えることを近年の日本人は忘れてしまっているように思える。
どんな人でも経験したことがあると思えることがひとつある。それは相手の言葉がどんなに正論であり論理的であっても、否定されればされるほど、厳しく否定されればされる程に、その人の意見を受け入れる気にはならないということだ。そして自分の意見に固執してしまう。小中高の学生時代を思いだせば、教師に頭ごなしに叱れれば叱られるほど反感を抱いていた自分がいたはずである。
最後に偉人の名言を”ベンジャミン・フランクリンはよくこういっていた「議論をしたり反芻したりしているうちには、相手に勝つようなこともあるだろう。しかし、それはむなしい勝利だー相手の好意は絶対に勝ち得られないのだから」。
セオドア・ルーズヴェルトは「自分の考えることが100のうち、75まで正しければ自分としては、それが望みうる最高だ」と人に打ち明けていた。”